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「三輪が一輪となり大輪が回る」

2022年4月22日~24日

第29回疏開リトリート・第157回ロンドン会座報告

第二十九回疏開リトリートは、二〇二二年四月末の肌寒いけれども明るい週末に開催され、疏開に初めて対面式で参加のマックスさん、ペドロさん、シェーンさんの三名を含む十八名(オンライン二名)が参加されました。久しぶりに集まることができ、三輪精舎サンガはその心の中に精神的な春の訪れを迎え、にぎやかに談笑する声が精舎のあちこちで聞かれました。

リトリートは金曜日の夜、マックス・ニルソン・ラドナー氏による「誓いの言葉」で始まりました。現在マックスさんは上海在住ですが、夏まで故郷のイギリスに滞在し、その間時間を見つけては、顕明先生の翻訳を手伝ってくれています。マックスさんは、その誓いの言葉の中で、「建心さんから誠実に求道をするという誓いの言葉を述べませんか?と言って頂いたことは、まるで浄土の菩薩に揺り起こして頂いたような驚きで、この誠実に修行をする機会の尊さを思い起こさせて頂きました。(中略)無常の理に適うよう、たった一度の疏開リトリートであるかのように、心から敬虔な気持ちで求道することを誓います」と述べられました。

誓いの言葉に続いて、佐藤顕明師が「開講のご挨拶」を述べられ、その中で三つの仏教の教えをお話しされました。一つ目は、「七仏通戒の偈」。「諸悪莫作。衆善奉行、自浄其意。是諸佛法」。二つ目は聖徳太子の教え「行善の義、元帰依に有り」。三つ目は、トマス・ペインの言葉をもとにした鈴木大拙の格言「善を行うことは私の宗教である。世界は私の家である」というお言葉でした。顕明先生は、「これらの教えはすべて、畢竟、私たちに対する佛様の『純粋な行為』を反映しています」とおっしゃいました。『純粋な行為』の意味は、故ホワイト先生の「行為のために行為する」というお言葉で理解することができます。顕明先生は、「純粋な行為」は仏さまのお慈悲の別の表現であり、「気づき」は仏さまの智慧に対応するものだとおっしゃいました。

また先生は、「『行為のために行為する』ことは、煩悩あるがゆえに非常に難しいが、ただ自分の宿業の現状に気づき、それを懺悔しながら、『見えない他者』に帰依するだけです。『他者 』とは、『自分の意識を超え』、『自己の思念を超え』たものという意味です。帰依するその一瞬のうちに、心は清らかになるのです」とおっしゃいました。

開講式後、夕食に続いて、第1回目の座談会が開かれました。

マーティン・ラウ氏は、自己批判をすることが多く、そのために他人からの贈り物や感謝の言葉をなかなか受け取れないのだと言われました。しかし、疏開前のミーティングと建心師との会話から、大切なことは自分が与えられているものに気づくことに重きを置くことで、そうすれば、たとえ自分が常にそれに気づいていなかったとしても、自然にそれに応えることができるようになるということに気付かされたと仰いました。

アミット・カンナ氏は、疏開に参加する前の座談会を通して、自分が決して慇懃に受け取る心を持っていないことに気づいたと述べられました。彼は、「私の批判的な心は、常に他人の意図や、相手が私に何を求めているのかを疑っているのです。三輪精舎に通い始めて、この外側の殻が徐々に浸食されてきています」と披瀝されました。

アンディ・バリットは、「六つ目の無財の布施」の「床座施」ということについて考えていた時、ジョン・ホワイト先生が三輪精舎の会合でいつも床に座られ、その度に建心さんが椅子を勧められたが、先生にいつも断わられていたことを思い出したと述べました。私は、正直なところ「建心さん、先生は椅子はいらないって言っているのに、どうしてあなたは彼の好みを覚えないんだろう?」と思っていました。しかし、「無財の七施」の教えの観点から、このような場面を改めて顧みてみると、建心さんがホワイト先生に席を勧めるときは、同時に優しい目、優しい表情、誠実な心などの布施も行われていたことに気がつきました。そして、ホワイト先生が最期を迎えたとき、建心さんの敬いと愛の継続があったからこそ、自分の人生と存在のすべてを建心さんと早苗さんに委ねることができると、先生は確信されたのだと思います。このサンガの設立に尽力されたホワイト先生と、今サンガを導くサポートとサンガのお世話をされている石井家の関係は、とても深く美しいものになりました。私は、建心師の「無財の七施」の実践と、自分の浅はかさ、狭量さの大きな違いを痛感しましたと申し上げました。

リズ・バーさんとティナ・スレヴィンさんは、それぞれの息子さんが療養中のため、疏開やロンドン会座に参加できませんでした。それにもかかわらず、お二人はサンガにメッセージを送ってくれました。ティナさんはストレスの多い大変な状況にもかかわらずケーキを焼いて下さり、リトリート中のお同行は彼女の愛情とサポートの美しい表現としてそれを受け取らせて頂きました。

リズさんはメッセージに「最初の事前座談会の後、私の息子が腎臓結石で入院し、私の生活は一転しました。 この間、心が落ち着く唯一の方法として、私は仏法をとても身近に感じていました。迷いや恐怖を感じていた時、阿弥陀様のお慈悲の光がどれほど必要であったかに気づきました。そしてこの困難な時期に、私は全く知らない二人の方からそれぞれ別の状況において、優しさに満ちた明るい笑顔の贈り物を頂きました。 この経験は本当に私の気分を高揚させ、たとえ笑顔のように些細なものでも他の人の精神状態に大きな影響を与えることを実感しました」と書いてくれました。

ティナさんは、メッセージの中で「疏開事前座談会で、ボ ディランゲージがコミュニケーションのひとつの形であるということに触れました。私の長男は障害を持ち言葉を喋れないため、ボディランゲージの表現が唯一のコミュニケーション手段であり、これは私にとって非常に身近なことです。彼の反応を見るだけで、彼が何を考えているのかがわかるので、そこに意識を払うことが一番大切なのです」と彼女の実体験を共有してくれました。

翌土曜日の朝、デイヴ・ジママン氏に導かれて行われた安らかな瞑想の時間と勤行の後、二回目の座談会が行われました。この座では、アンドリュー・ウェブ氏が、彼の末っ子の特別支援学校への入学を手助けしてくれた市役所の職員との出会いについて話してくれました。特別支援学校への入学過程は、アンドリューさんにとって、とても困難で苛立たしいものであり、多くの悲観的感情を抱いたそうです。しかしある日、その担当職員が、自身の職務を越えて問題解決に尽力してくれていたことを知りました。その人のおかげで、アンドリューさんの息子は学校に籍を置くことができました。アンドリューさんはその担当者に感謝の手紙を書き、その担当者から返事が来たとき、彼にも同じように特別支援を必要とする息子がいて、アンドリューさん一家にとても共感していることを伝えてくれたそうです。アンドリューさんは、相手のことを考えず、自分の状況ばかりを考えていたこと、相手がどれだけ自分をサポートしてくれていたのか、そして相手がどういう状況であったのかを全く考えなかったことをとても反省されたそうです。

また、アンドリューさんは、最近、家事を手伝うべき時にうたた寝してしまい、起きて奥さんの真子さんに謝ったそうです。しかし、真子さんは「よく休んだね。だから謝らないで。言うならありがとうと言って」と言われたそうです。その言葉から、彼は自分の謝罪が自己中心的な保身であったことに気づいたことを話されました。顕明先生は、アンドリューさんの披瀝を受け、「ごめんなさいには、道徳的な側面と宗教的な側面があります。宗教的な意味での 『ごめんなさい』は、気づきから生まれるのですよ」とおっしゃいました。

ショーン・シムズ氏は、「無財の七施」を読んだ感想を述べてくれました。自閉症の人たちにとって、自分が優しい目や優しい表情を与えているか、また受けているかを知ることはとても難しく、あるいは不可能と思えるそうです。しかし、「心施」についてはとても良く理解できるとし、オマーンの平和部隊で働いた経験を通して、「おもてなし」の大切さを学んだことを話してくれました。

アンドリューさんはショーンさんの披瀝を受け、最近、息子さんの学校で自閉症を持つ女性に会った経験を話してくれました。彼女はいつも親切、友好的かつ明るい人で、会うのが楽しみだったそうです。その女性はアンドリューさんに、「あなたの息子さんはいつもニコニコしていますね。でも、私は自閉症だから微笑むことができないのよ」と言われたそうです。アンドリューさんは、「この女性は、自分は微笑むことができないと言ったけれども、彼女はいつも別の多くの方法で愛情深い優しさを伝えてくれるので、それに気がつかなかった」と述べられました。

鈴木佳さんは、電話の最中に変な造語を使ったお母さんを小馬鹿にしてしまったという反省を話されました。お母さんがその造語を使ったときにそのことをからかうと、お母さんは「あなたを笑わせようと思ってつくった言葉よ。あなたの笑顔が見たいから」と言われ、佳さんは、お母さんがどれだけ自分のことを思ってくれているかに初めて気づかされたそうです。

疏開リトリートの閉講式に続いて、4月24日(日)午後からは、第157回ロンドン会座が開催されました。石井建心師は、「布施の完成について」と題して、先のリトリートのテーマについてご自身の考察をご法話されました。非常に濃密で豊かなその内容を、ここで充分に要約することはできませんが、特筆すべき点をいくつかご紹介させて頂きます。

「私たちの命や身体も両親からの贈り物であり、私たちの生活のすべてが私たち一人ひとりへの贈り物です。ですから、dānā(布施)の訳語である『giving』(与える)という英単語は、自分が与える側であると無意識に思い込んで傲慢になりがちで、常時適切であるとは言えない気がします。(中略)『与える』よりもむしろ『Sharing』(分かち合う、共有する)と言った方が自然に響きます。なぜなら、私達が提供するものは、元来私達の所有物ではないからです」

そのことをより考え、深めていくうちに、私は浄土真宗のご開祖である親鸞聖人のお言葉を思い出しました。『御文』の一帖目第一通に出てくる「親鸞は弟子一人ももたず候。そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」というお言葉から、ただ阿弥陀如来に帰依された聖人ご自身のお喜び、如来に摂取された大満足の世界を私たちに語られていることが本当に伝わってきます。救済される側の衆生の一人、一人の念佛者として、すでに救済に与った親鸞聖人の三宝に対する報恩感謝の誠を感じずにはおられません。

また、建心師は、最近、ご自身の体験として、マックス・ニルソン=ラドナー氏との出会いにより、ジョン・ホワイト教授の詩「三輪精舎の意味と目的」を理解されたことをお話しされました。リトリートのためにマックスさんに「誓いの言葉」を勧めたところ、マックスさんはその機会を心から受け入れ喜び、ご自身を見つめる機会を与えられたことに深い感謝の意を表されたそうです。そしてその感謝と誠実感に溢れる彼の返答を聞いた建心師ご自身が、無上の喜びに満たされたそうです。この体験を通して、建心師はホワイト先生の詩を思い出し、「マックスさんが、真摯な求道心を以ってこの機会を与えられたことに純粋に感謝したその時、私はそのまま彼の感謝の気持ちを受け取らせて頂く側になっていました。このマックスさんとの出会いは、私にホワイト先生の書かれた詩の「もし贈り物そのものが清浄であり、与える⼈に報酬や返礼の思いなく、受け取る⼈にも負債や責務の思いなく、ただ与えるためにのみ与えられるならば、その時、今度は、受け取る⼈がそのまま与える⼈に、与える⼈が受け取る⼈に成れる。そうなれば、相違から統⼀と調和が⽣まれる。三輪は一輪であり、そしてその⼤輪が回る。これが三輪精舎の意味であり⽬的である」というお言葉を充分に理解させてくれました。そしてこの詩でいう「純粋さ」とは、「感謝の真心」にほかならないのだと感じました。この詩を作ることで、ホワイト先生が私たちと「分かち合いたい」と思われたことは、先生ご自身がご院家さまや正行寺サンガのお同行との出会いを通して感じ、実体験されたことが基盤になっていることに今更ながら気付かせて頂きました。

建心師のご法話の後、アンドリュー・ウェブ氏の司会で、お礼の座が開かれました。   

アメリカからオンラインで参加したニール・チェイス氏は、「自分は父親としてきちんとできているだろうか」と悩むことが多いそうです。しかし、建心師が「ただ受け取らせて頂いたものを共有するだけ」と教えてくださり、「親としての不安から解放されました」と披瀝されました。そして、この安堵感から、信仰を深めていく気持ちの余裕が生まれ、自分がすべき事については自己執着の考えを捨て、ただただ受け取らせて頂いたものを共有するだけであることに気付かされたそうです。

クリストファー・ダックスベリー氏はご法話を聞き、先日母親のもとに一週間滞在したときのことを思い出したそうです。その滞在中、彼はお母さんを助けるために全ての事をしたそうです。お母さんから「せめて紅茶を入れるぐらい何か一つでも私にもさせて」と言われても、「自分がするから大丈夫」と言って、それを拒んでしまったそうです。 建心さんのお言葉を聞いて、クリストファーさんは「母は親心を表したかっただけなのに、素直さを欠いた自分中心な善行をすることで、その機会を奪ってしまったことに気づかされた」と反省の思いを述べられました。

アンディ・バリットは、ペドロさんが建心さんに頼まれて、会座の前に手水鉢を掃除されていたことを話しました。ペドロさんは手水鉢の周りにある石を一つ一つ取り除いて掃除し、昼休みも返上して一生懸命に掃除していました。アンディは、ペドロさんが初めて疏開に参加したにもかかわらず、彼の佛教実践の態度はアンディ自身のそれよりはるかに優れていると感じたことを述べました。 

ペドロさんは、「実家にも手水鉢があり、その洗い方を真似ただけです。自分が育った家に対して両親が敬意を払って大切にしているのと同じように、私自身もお寺に敬意を払うべきだと考えたまでです」と返答されました。

建心さんは、「手水鉢を洗うようなどんなに小さなことでも責任を持ってやれば、三輪精舎が必ず自分のためのお寺、居場所になりますよ」とおっしゃいました。

次に石井早苗さんは、ご法話を聞かれて次のようにお礼を述べられました。

建心師がお涅槃図について、以前ご院家様より「お釈迦さまのお母様がお浄土よりお薬を放たれました。お釈迦さまにそのお薬は届かなかったけれどもお釈迦さまに対するお母様の親心は届いていますよ」とお聞かせ頂いたことを共有して下さり「頂きものだけを見るのではなく、その奥にあるお心を頂いていきましょう」と仰いました。その時、何故か初めて私が三輪精舎に訪れた時のある場面を思い出しました。それは、二十三歳の時、二人のお同行と三週間三輪精舎に滞在させて頂いたときのことです。お同行お二人のご両親からは顕明さん博子さん宛にファックスでお礼状が送られてきました。当時、私の両親は顕明さん博子さんと親しい関係になく、私は複雑な心境でした。その時、顕明師、博子さんより「あなたのご両親も、二人のご両親と同じ気持ちで居られると思うよ」と仰って頂きました。親心が分からず、物しか見てない私に、顕明師、博子さんは両親の思いを受け取って下さり私に教えて下さっていたその場面が自然と思い出され、その親心を教えて下さる多くのお同行の方々にお育てを頂いてきた事実に気づかせて頂きました。

最後に、顕明先生が建心師のご法話に対しお礼の言葉が述べられました。

「建心師のお話は、初期仏教から大乗仏教を通し真宗に及ぶまで全てを尽す素晴らしい内容でした。それを聞いて、私は大きな安心感を持ちました。ご存知のように、ジョン・ホワイト先生は、ご院家さまとの出会いにより、三輪精舎建立の活動を始められ、私たちと共に一つの道を歩むことを約束されました。そして、自分の全てのキャリアを捨てて、全力を注がれたのです。そのお相は、世界平和を願うご院家さまの祈りの具現化でありました。精舎設立から二十年が過ぎた頃、かつて孝順師が「本当の意味で英国にお寺が建つには三十年かかる」と仰ったことを思い出されたホワイト先生は、「平、三輪精舎はお寺として動き出したぞ」とおっしゃいましたが、その時はまだ、私は彼に賛成できませんでした。しかし、今、私は「Three Wheelsは確かにここで働き始めた」と感じています。みなさんが喜んでこの三輪精舎の法動に参加して下さっています。ホワイト先生と博子は、建心さんの法話を聞いて非常に喜び、また私が建心さんと早苗さんとその誠実な子供たちに護られているのを見て、とても喜んでいることでしょう。今、『三輪』は『大きな一輪』として回り始めています。」

南無阿弥陀仏

合掌 

アンディ・バリット記