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『永遠にはたらく燈火』


故ジョン・ホワイト教授葬儀報告

二〇二一年十二月三日、三輪精舎僧伽の創設メンバーであり、偉大な師であり友である故ジョン・ホワイト教授の葬儀が執り行われました。一九九二年十一月の竹原智明師との出会いをきっかけに、ジョン・ホワイト教授が、親友の佐藤顕明師、故博子夫人と協力して創設してくださった三輪精舎僧伽は、その多大なご尽力により、形体的にも精神的にも成長し続けています。
葬儀では、英国同行のすべての世代、ホワイト先生の旧友、そしてインターネット生中継を介した正行寺の多くのお同行が、ホワイト先生を追悼し、先生の人生を祝福し、ホワイト先生のご生前のご恩と、そしてご往生後も尚はたらき続けて下さっている事実に対し深い感謝を表すため、全員が一堂に会したお礼の場となりました。
葬儀を前に竹原慶明師は、佐藤圓明師、小河正行氏とともにロンドンにご飛来下さり、佐藤顕明師、石井建心師、早苗さんとともに綿密な計画と準備をして下さいました。葬儀までの間、小河氏の献身的な働きにより、石庭はホワイト先生に敬意を表すが如く蘇り、最高の美しさと静寂さを醸し出しました。
後に竹原慶明師が語られたように、ホワイト先生の葬儀は、当日だけではなく、さまざまな準備段階から始まっていました。石井建心師の指揮のもと、多くのお同行が三輪精舎に集まり、多屋や境内の設えをお手伝い下さいましたので、葬儀の前夜、ホワイト先生のお棺が三輪精舎にお戻りになった時には、精舎の状況や雰囲気は完全に安らかかつ清浄なものとなっていました。

葬儀は、正行寺の竹原智明ご住職の御名代である、竹原慶明師のお導師によって執り行われました。先生のお棺の横には、ホワイト先生にとって法弟であった佐藤顕明師が、ホワイト先生の亡きご家族の代理としてお座りになられました。葬儀次第は浄土真宗の伝統的法式に基づいて厳修され、竹原智明ご住職が書かれた敬白文を、導師・竹原慶明師が代読されました。「ホワイト菩薩への敬白文」の中で、竹原智明ご住職はホワイト先生に対する最大の敬意をもって、ホワイト先生に「久遠劫保和燈菩薩」の法名を授けられました。(敬白文は今号あとがき参照)

次に、ホワイト先生が出会われた多くのご友人を代表して八名の方々が弔辞を述べられました。それぞれがホワイト先生の多角的人生の重要な側面のすべてを代表し、 親愛なる友人、であり師であった人を失った深い悲しみと共に、先生の愛情と思いやりがそれぞれの人生を変えてくれたことへの深い喜びと感謝の気持ちを込めて、ホワイト先生との出会いを通して体験した特別な思いを次のように語られました。

UCL代表 ニック・タイラー教授
「最善の果に値する有徳の志よ来たれ」は、UCL創始者たちの座右の銘でした。この所見はやがてアレキサンダー・ウィリアムソン教授によって実践され、特に長州と薩摩から来た学生たちに対する多大の関心と思いやり溢れる教育において発揮されました。ジョン・ホワイト教授は、UCLの日本向け学長代行としての責務を果たしながら、この甚深の原理を取り上げて、戸田健二氏、スティーブン・モントゴメリ教授と共にエーザイ株式会社との連結を築き、その結果この大学と日本との歴史的連帯の再興をなしとげました。それは、ジョンによってデザインされた長州ファイブと薩摩ナインティーンの顕彰碑に象徴的に表現されており、彼の石の選択と彼の俳句には(この三輪精舎の庭に証明されているような)彼の独特な完全性志向が見られます。私はUCLにおける彼の役割の継承者として、二〇一三年の長州ファイブ渡英一五〇周年記念式典と二年後の薩摩ナインティーンの渡英記念式典に携わりました。私は、ウィリアムソン教授にとっても非常に重要な原理である「異質の調和」を理解する重要性と、将来的視野をもって、世界平和の概念を強化表現する雅楽の意義をジョンから学びました。私にできるのは、ただそのような彼の足跡を辿りこの道を継承する努力だけであります。それは大学にとっても非常に重要であり、アレキサンダー・ウィリアムソンとジョン・ホワイトによってもたらされ、世界平和の実現に必要な魁であるそのような理解を目指しています。ジョン、「はるばると こころつどいて はなさかる」というあなたの言葉と指導原理を忘れないようにします。有り難う、ジョン。

佛教協会会長 
デズモンド・ビダルフ博士
佛教協会の代表として、佛教に改宗した英国仏教徒たちのために、あらゆる手段を尽して佛陀の教えの真実を追究した、ジョン・ホワイト教授の生涯について話させて頂く好機を頂き、非常に嬉しく思います。ジョンは、さまざまな意味で私たちの素晴らしい模範であり、他の人々を導いて彼等が相続することを望んでおられました。
私が始めて平(顕明師)に会った時、ジョンについて話してくれたことを覚えています。庭作りをしていた頃のことですが、毎朝早く、時には六時過ぎに来てドアを叩いて、「平、平!俺はお前に質問がある」と訪ねて来られたそうです。お解かりになるでしょう、これは彼の腹底から出て来ていました。そこにジョンらしさがあります。ジョンはみんなと共にありながら、群集から一際突き抜けていました。高くて、骨ばっており、笑みを浮かべ、独特なところがありました。彼はまったく非凡な人物でした。私たちの彼との交際はいつも良好でした。私たちは、芭蕉、蕪村、一茶、それぞれに異なった佛教宗派を代表する、これら三人の偉大な江戸時代の俳匠の俳句を出版する幸運に恵まれました。私たちは素晴らしいことを為し遂げられました。平の貢献はまことに法外なものでした。ジョンと平の二人は一緒になって、本当にとんでもない勢いで働き、僅か二、三ヶ月でそれら三冊の本が出来たという印象でした。それらは決して小さな本ではありません。途方もない驚嘆すべき本であり、ジョンへの永久なる賛辞となるでしょう。彼は本当に素晴らしい人でしたし、私たちはみんなそれぞれに、彼のいないことを淋しく思うでしょう。彼は、三輪精舎にとって、本当に柱だったと思います。全身全霊を持って生き切るいのちの現実的模範だったと思います。正行寺を訪ねる好機と光栄を頂戴した時のことに触れたいと思います。名号山に登った時にジョンの書いた短い詩が(名号山の)石柱に彫られているのを見ました。皆さんご存知でしょうが、それは「純粋な信仰のあなた方と 何事にも確信のない私が ただ一つの道を旅します」という詩です。これは典型的なジョンだと思いました。曖昧さに満ちているけれども、同時に本当に彼が何ものであるかを露呈しています。ほかの人々には、「純粋な信仰のあなた方」と呼びかけながら、「何事にも確信のない私」といいます。信仰が「ない」という意味でしょう。勿論仏教徒である私たちは知っています。この「ない」は空でしょう。私たちは皆ただ一つの道の旅人だから、ともに「旅する」のです。ジョンは、彼の仏教徒としての心をここに完全に露呈しています。ただ一つの道、大きな道、大乗仏教徒の道、それは素晴らしい模範でした。終わりに申し上げます、「有り難う、ジョン。あなたの人生に有り難う。あなたの貢献にありがとう。あなたを知る人はいつまでもあなたのことを忘れないし、あなたの為し遂げたことは長きに亘って続くでしょう。」

三輪精舎理事 
スティーブン・モントゴメリ博士
私が最初にジョン・ホワイトに会ったのは、UCLの総長が彼を外交部長として任命し、彼が私の新しい上官となった時でした。彼が六十四歳の誕生日を迎えた時で、私は五十七歳でした。UCLの宣伝資料を造りながら、私たちは非常に実り多い関係を作りました。
妻のアンと私は、直ぐに愉しいギリシャ女性だったジョンの妻・クセニアに会い、よく一緒に食事しました。彼女は彼のことをいつも「ホワイト」と呼んでいました。不幸にもクセニアは一九九二年初頭肺癌で亡くなり、彼は沢山の詩の本の第一冊目を彼女の思い出に奉げました。
一九八九年に私はフレッド・アトキンス氏からプヌワニ香織さんの父親である戸田健二氏を紹介され、一年後にはUCLとエーザイの間で新しい研究棟を建設する契約が交わされました。これによってUCLの日本との歴史的関係への関心が蘇り、ジョンは長州ファイブと薩摩ナインティーンの黒い大理石の顕彰碑をデザインし、これは今UCLの日本庭園に建っています。総長とジョン・ホワイトは一九九二年十一月に正行寺を訪れ、その結果として古典的楽器と装束を身に付けた筑紫楽所の楽人と舞人が一九九三年の顕彰碑落成式で演奏しました。
佐藤平が一九九三年にロンドンに来てから、三輪精舎が造られることになった時、彼はUCLスタッフのコモンハウスで頻繁にジョンと会い、二人の関係が非常に特別なものであることは直ぐに明らかになりました。カーベリ・アベニュー五十五番地の購入から始まって、お仏間の整備、禅ガーデンのデザインと建設等、彼らは親しく一緒に働きました。彼等の親しい関係の証拠は、ジョンの沢山の正行寺講話が平さんによって翻訳されたことにも見て取れます。『笛の息』という一冊の詩の本と芭蕉と蕪村と一茶の俳句の三冊の新しい英訳本は、彼等の連名で出版されました。
私の或る特別な質問に対して平さんは、竹原智明師もジョンに、ジョン自身が先生を持っているかどうか、同じ質問をされたことがあったと話してくれました。この問に対するジョンの応答は、「特別な師はいません。まわりのみんなが師です」でした。平さんの最近の正行寺滞在中に、智明さまはジョンの応えによって、『法華経』に出ている「常不軽菩薩」、つまり他人に対して、自分をなじる人々に対してさえも、常に心からの尊敬を示す菩薩のことを思ったと付け加えられたそうです。

三輪精舎理事 永瀬秀明教授
ジョン、私を教え導き、私の思想を鼓舞して頂いたことに対し、衷心から感謝の意を表明したいと思います。
私たちが始めて会ったのは二〇〇〇年、私がカンサス シティからロンドンへ移住した直後でした。私たちは二人とも、フランス料理店のル・スクエにいました。私は一人で食べており、あなたも一人で食べておられました。お互いに自己紹介をしてあなたは親切にも私をUCLの教授ディナーに招待して下さいました。その後私たちはかなり頻繁にディナーを共にし、佛教、量子物理学、芸術、その他沢山のことについて話し合いました。私たちは「迷想」のような言葉の本当の意味について議論しました。科学者として事実に基づく思考をしていた私に対して、あなたは新しい次元をもたらしてくれました。ディナーから帰宅後電話をして来て、その夜に閃いた一番新しい詩を読み聞かせてくれるということが頻繁にありました。
あなたは偉大な生命愛をもった本物の全人でした。あなたがいなかったら今の私はなかったでしょう。あなたはあらゆることについて最善を好みましたー食事でもワインでも。私はあなたの冒険心にも感服しました。七十五歳でグライディングを始め、幾度にも亘る決死的冒険の後、遂にはピレネー山脈の木の上に不時着して、止める決心をなさいました。
私は最早あなたと話すことはできませんが、まだ心であなたに会うことはできますし、決してあなたのことを忘れないでしょう。
さよなら、親愛なる友よ。

三輪精舎理事 プヌワニ香織さん
渡英して参列を願っておりました両親・戸田健二、と美沙子の想いを胸に、本日この場でホワイト先生に御礼を申させて頂く機会を賜りましたこと心より感謝しております。
ジョン無しには、今日のように私は生活しておりません。ジョン無しには、今日のようにここに三輪精舎僧伽はありません。彼が三輪精舎で亡くなるその日までの三十年間、彼は三輪精舎僧伽の精神的な成長の為に、これからの将来を生きる人々の為に、献身的に尽くして下さリ、そのお姿を私は拝しました。私が十七歳の頃からの三十二年間、私は、あらゆる場面で彼の強さに支えて頂き、彼の智慧によって励まして頂き、彼の愛情に包んで頂きました。私自身に対して、私の家族に対して、三輪精舎僧伽に対してジョンがして下さった御恩に感謝の意を尽しきることはできません。
ジョンが三輪精舎に移られてからも、勿体なくも私は足を運ばせて頂く機会を賜りました。三輪精舎での彼の存在に涙が溢れて仕方ありませんでした。私が今思い起こすのはその時の彼の精進力と忍耐力です。私はジョンがそういうお方であると知っていたつもりでしたが、愚かにも全く分かっていませんでした。執筆を完成させたい一心で、彼は何時間も机に向かい、一文字一文字ずつタイプしていました。私が目にした光景は凡人の行為ではありませんでした。このことによって、三輪精舎にして下さった私が知るよしもない多大な静寂の行為に気付かされました。
今ジョンの詩を幾つか拝読させて頂き、以前よりも気づかせて頂くのは、静寂さにある安らかな執着のないジョンのお心でした。ジョンに実際にお会いすることは出来なくなりましたが、彼がこの詩二つを今日の私に直接伝えて下さっているようです。

行為のために
行為せよ
あなたは
浄土に
到着するだろう
それはあなたの内にある

浄土へ達するために
なすことをなすとせよ
決してそこに着くことは
ないだろう

夏と
冬を

日の出と
日没を

超えて

内なる
浄土

ジョンが今まで教えて下さったことが少しでも我が身を通して内観できるように、私は生涯を通して努力します。
「香織、僕が必要な時にはいつでも訪ねておいでよ」この言葉を今まで何度もおかけ頂きました。そしてこの先も私にお呼びかけ下さることでしょう。

友人 ジェシカ・アトキンスさん
本日、弔辞を述べるかどうかを問われて以来、ジョンを讃えるに相応しい話を書こうとして来ました。
皆さんご存知のように、ジョンは本当にすばらしい言葉の匠であり雄弁家でしたので、本当のところを言えば、彼を公平に評する術はまったく持ち合わせておりません。ですから私にできるのは、ただただ心を籠めてお話しすることだけです。
私をご存じない方々のために申し上げますが、ジョンは私の父の偉大な友人であり、物心着いたころから私の人生の相談相手でした。私が六歳のある日、私は彼が私の精神的親であると宣言し、彼はそれを優しく受け入れてくれました。
長ずるに連れて私たちの親密度は増し、頻繁にコーヒーを飲み、食事をし、散歩をしました。殆ど毎日電話で話し、私たちの長い会話は、宗教からグライディング、そして勿論次の仕事など、量りしれない話題に及んでいました。
彼の詩と講話をより多くの方々に届けるために、私たちは一緒に一所懸命働きました。それは私たち二人に興奮をもたらす構想で、私にとっては法外な栄誉でした。
ご存知のように彼は容赦なき努力家で、病院でも詩を書き続け最後の完全な本のためにレイアウトを用意しました。
極最近のある日のこと、彼は息も力も絶え絶えとなり、一冊の本のために四十九首の詩(彼は五十だと思っていましたが)がやっとのことだと理解して、その本のための最後の詩を、躊躇いもなく一語一語、口にして、私は恐れ敬いながらそれを書留させて頂きました。

最後が
来るだろう

これにもあれにも
あるいはすべてに

どれがその
最後になるだろう

なんという驚嘆すべき人でしょう。彼と時空を共にしたとは、なんという恩恵でしょう。
ジョン、私はあなたを本当に愛し、あなたが居なくてものすごく淋しいです。あなたは私の精神的親であり、師であり、私の友です。私は、あなたと知り会えたおかげで、遥かによくなっています。あなたは私の人生を豊かにしてくれ、私は永久に感謝しています。

友人かつ家政婦 
ラティファ・エル・アマディさん
私たちは今日、ジョン・ホワイト教授を偲んでここに集まっています。ジョンが私にとってどれほど素晴らしい方であったかを皆さんと共有することができ、とても光栄に思います。ジョンは本当に愛情深く、優しい人でした。彼はいつも私の側にいて、私を助け、私を気遣い、いつも私が最高の状態でいれるように助けてくれました。彼と知り合ってからの八年半、彼が私のためにして下さった全てのことに、本当に感謝し致します。私はジョンの家政婦でしたが、彼はいつも私を愛する友人として扱ってくれました。ジョンが私の人生にどれほどの喜びと愛をもたらしてくれたか、言葉では到底説明できません。彼は本当に類稀な逸材で、彼のような人には出会ったことがありません。
つい最近、私はジョンの家から歩いて五分ほどのところに引っ越しましたが、彼はもうそこにはいません。私はジョンともっと一緒に座って、充実した時間を過ごしたいと思っていました。しかし、ジョンは今、安らかでより良い場所で永遠に眠っています。彼はこれからも私の心と人生の中にいて、これからもずっとそこにいてくれるでしょう。ジョンは今、至福の喜びに満ちた永遠の時の中で、完全な平和の内に眠っています。私はジョンを決して忘れることはないでしょう。

三輪精舎主管 佐藤顕明師
まず法弟として、ご参詣の皆さま方に対し、長きに亘る皆さま方のホワイト先生への生涯を通してのご友情に、心より感謝申し上げます。また同時に、ホワイト先生の葬儀のご導師を勤めるために、正行寺僧伽全体を代表してロンドンに来られ、竹原智明師の「ホワイト菩薩への敬白文」を拝読して下さった竹原慶明師に、心より特別な感謝の意を表明させて頂きます。
ホワイト先生が最初の正行寺講話において次のような英文俳句形式でお同行に自らの深い真情を吐露されたのは、一九九三年の二回目の正行寺参詣のときでした。

純粋な信仰の
あなた方と

何事にも
確信のない
私が

ただ一つの
道を
旅します

それに引き続く二十八年間、ホワイト先生は、この詩に籠められている衷心の願いというか、約束というか、その内奥の祈りを、ロンドンの真宗僧伽、三輪精舎の設立に深く関わることによって、見事に実現して下さいました。世界的に有名な美術史家としての途方もない業績のすべてを打ち捨てて、この真宗僧伽の形成にその全エネルギーを注ぎ込んで下さいました。それは、もともとホワイト先生の正行寺住職竹原智明師との最初の出会いで生まれた目標の実現でした。
ホワイト先生ご往生の二、三日後、竹原智明師に「あのホワイト先生との出会いは何だったのですか」と問いました。竹原師は「ホワイト先生は、はじめから菩薩さまでした」と即答されました。私は我が師の言葉に非常に感動驚嘆して、お二人の出会いは本当に極めて稀な歴史的事実であったということ、一人は東洋から一人は西洋から出現したこの偉大な二個人の出会いにおいて、このお二人は、最も深い精神的次元でお互いを念いあう、本当に二人の菩薩さまであったという事実を理解することができました。ホワイト先生のお心(スピリチュアリティ)は、お二人の出会いを通して大乗仏教の究極的真実を受け取るに充分なほど既に成熟していたに違いありません。
竹原智明師は、「ホワイト菩薩への敬白文」において、ホワイト先生を「久遠劫保和燈菩薩(永遠に平和を保つ光明の菩薩)」と名付けることによって、先生に対する最高の尊敬を表明され、「菩薩」とは、一切衆生を救えない限り佛そのものには決してならず、限りない努力をもって歩みつづける探求者、求道者であると、この菩薩という言葉の最も重要な意味を解説して下さいました。
その人生の終焉に向かって、ホワイト先生は「三輪精舎のよき友に囲まれて死にたい」と仰って三輪精舎に帰られ、十一月六日、三輪精舎止住の第八日、浄土真宗の開祖、親鸞聖人の教義についての本を書きながら斃れられ、全く突然のご逝去でした。ホワイト先生はその人生の最後の最後まで三輪精舎で非常に真剣に働き続けておられました。その真実の存在が肉体の消滅とともに現成したという感じです。この永遠な菩薩精神、限りなき利他性は、大乗仏教の真髄であり、ホワイト先生は今も私達のために働いて下さっており、「阿闍世のために涅槃に入らず」の精神で、いつまでも働き続けて下さるでしょう。
ホワイト先生、私たちの友人みんなの前で、この世に生存が許される限り常に、空の究極的真実から流れ出て来る先生の永遠な菩薩精神を受け取らせて頂きつつ、先生に命じられたことを為し遂げることを誓わせて頂きます。

ホワイト先生の素晴らしい人生に感謝すべく行われた参列者焼香の後、お棺は石庭の四阿に運ばれ、先生自ら設計・制作した禅ガーデンと最後のお別れをされました。正行寺若婦人会の法友による「You Raise Me Up」の合唱が、ホワイト先生の人生への最後の讃辞として流される間、作庭時にホワイト先生と人生を変えるような出会いをされた佐藤顕明師と小河正行氏、そしてご晩年の先生にお仕えになった石井建心師がホワイト先生の側に座り、毎年酌み交わされた大賀酒造の「筑紫野」が小河氏によって献杯されました。出棺の際には、正行寺とUCLのご縁を結んだ筑紫楽所演奏の雅楽が三輪精舎境内を静寂に包み込む中、先生はお浄土へとお還りになりました。

ホワイト先生の葬儀において、「異質の調和」という先生の心からの願いを実現された、竹原智明師、竹原慶明師、佐藤顕明師、石井建心師、佐藤圓明師をはじめとする正行寺と三輪精舎の全お同行に、心からの感謝を申し上げます。竹原智明師が敬白文に記されたように、ホワイト先生は永遠の菩薩として、「愚かな私たちのために道を照らし、残された人々のために果てしなく用く光明」として、存在と非存在の平等なる世界から、これからも常に私たちと共にいて下さいます。
合掌
アンドリュー・ウェブ記