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大乗仏教の大きな流れに与って

第二十六回疏開リトリートと二〇二〇年度報恩講御取越報告

第二十六回疏開リトリートは、進行中のパンデミックにも拘らず、三輪精舎住人と同行の親切心と大奮闘と順応力によって、幸運にも今月オンライン形式で挙行することができました。特に、疏開に向って一ヶ月間毎週一回小グループの座談会をすべきだというクリストファー・ダックスベリー氏の示唆のお蔭で、その一連の座談会はリトリートの精神的成功に大いなる貢献をしました。リズ・バーさんが言われたように、それらの座談会はすべての参加者にリトリートへの参画を促す冥想の時間帶で、「より大きな自他の気付きと誠実な心の維持」を大事にしました。

              疏開中のご法話で、佐藤顕明師は、彼の新しい書物への竹原智明師の「序文」を拝読されました。その「序文」においてご院家さまは、偉大な構想力を以て、釈迦牟尼佛御在世の頃の雨安居について語られました。「疫病の感染期間に相当する三ヶ月間、釈尊の弟子は雨を避けて外出を控え一所に留まって深い冥想に入りました。」「この期間に培われたのが<無我>の姿勢であり、そこから生れたのが釈尊の智慧であり、生きとし生けるものすべての平等意識へとつながります」。ご院家さまの深遠なお言葉を通して、この第二十六回疏開リトリートが、私たち自身の貴重な「雨安居」であるということが明らかになりました。また、もともと三輪精舎の多屋で育った若いお同行のプヌワニ・リナさんが、ご院家さまの「無我」と「縁起」の教えを深く理解して、お二人の間に精神的出会いが進行中であることを聞いて、お同行はまた非常に大きな感銘を受けました。

              親鸞聖人に私たちの感謝を捧げる報恩講御取越の時期と一致することから、第二十六回疏開のテーマは「親鸞聖人と私」でした。このテーマについて考える機会を与えられて、多くのお同行が親鸞聖人をこれまでよりもはるか身近に感じるようになりました。例えば、マーティン・ラウ氏は「親鸞聖人から三輪精舎へと流れる伝承があって、親鸞聖人自身のことを知らないけれども、私はその伝承に関わっていまして、それが私に一切の存在は繋がっているということを立ち止まって考えさせるのです」と言われました。顕明先生はそのご法話の中でこの点に触れ「私たちがこの僧伽においてお念佛を称えるということ自体、大乗仏教の大きな流れに与っていることを意味します」と言われました。多くの人々が親鸞聖人の息もつけないほどの誠実さと正直さに出会った経験を語りましたし、クリス・ドット氏は「親鸞聖人は本当にご自身を知っておられたと思うし、それは親鸞聖人がほかの人々のこともよく知っておられたことを意味すると思います」と述べられました。

              親鸞聖人に見られるそのような正直さは、顕明師の法話中のお同行の質問にも明らかに現れていました。お念佛を称える時の二つの違った称え方についての鈴木佳さんの非常に真剣な問いによって、顕明師から自由で自然な返答が出てきました。「念佛は宇宙的です。念佛はすべてです。あなたの業は小さくはなく、それがいつも周辺に侵入しています。そうです。私たちの罪業は大きいのですが、南無阿弥陀仏はそれを遥かに超えています。南無阿弥陀仏がすべてです。懺悔と感謝をもって、ただお念佛に帰るだけです」と。

              必然的な結果として、この疏開期間中には、短いリポートで語るには余りにも多くの素晴らしい瞬間がありましたが、参加者の中にルース・ニルソンラドナーとマックス・ニルソンラドナーという母子がいた事実に触れることが大事だと思われます。この母親と息子の関係はすべての人にとって非常に感動的でした。ルースさんは、自分の母性愛は条件付きであったと解らせて頂きましたと語り、息子のマックスが自分を佛道に導いてくれたのだと話されました。ルースさんのこの実直さは建心師に、親子がお互いに精神的に独立して、子供に第二の精神的誕生を遂げさせ、母子が共に朋同行として善き友として佛道に向うことの重要性を話す好機を提供しました。

コロナウィルスの大発生は、今また更に広く蔓延しつつあります。しかしながら、この頃の短かい秋の日にも拘わらず、現今の生活規制の不安にも拘わらず、お同行は顕明先生の言葉で大いに勇気付けられました ―「信仰の目覚めは私たちを<安心>に、すなわち<安らかな気付き>に、住まわせてくれます。それは絶対的に安らかです、恐れるものは何もありません、なぜなら、私たちははっきりと自分自身に、みずからの業的存在の実体に、気付いており、同時に私たちすべてを悉く抱き取ってくれる無縁の大悲に気付いているからです」と。この恐れを除く言葉を聞きながら、ご院家さまの「序文」の「<我が親友>とは、晩年に臨まれた聖人が、自他・相対の中で苦悶する、かつて二十年間共に歩まれた東国の念佛僧伽の人々に対して、慈悲溢れる如来からのお便りを確信をもって伝えられたお言葉でありましょう」という温かいお言葉に耳を傾けさせて頂くことができました。この優しいメッセージは南無阿弥陀仏ですと顕明先生は説明されました。「念佛は、阿弥陀佛の私たちすべてに対する<そのまま来い>とのお呼びかけであり、同時に<阿弥陀仏に帰依します>という私たちの佛様への応答であり、直ちに仏さまにお任せするのです。すなわち、念佛は、法身の大きなはたらきであり、形も言葉も超えた真実からの大慈悲心の奔出です」と。

疏開リトリートの週末は、今年はオンライン開催の年中行事、報恩講御取越の厳修で終りました。親鸞聖人への感謝の儀式をこういう形で執行するのは異常なことですが、そういう特殊な事情がアンディ・バリット氏の同僚のライン・マネジャー、クリスティン・グラットンのような新しい方々の参加を可能にしました。クリスティンさんはズームで儀式に参加しながら非常に力強い瞑想的雰囲気を感じたと仰いました。

このかなり長い報告の最後に私はデーヴ・ジママン氏の座談会所感から数行を引用したいと思います。デーヴさんは人生的に、コロナウィルス発生以前から、多くの難題を抱えていました。ですから、デーヴさんの所感の中に念佛の道についての美しい詩的表現を見出して、私は驚くと共に大いに励まされました。

君が君の人生で何をしていようとも、君の心を変えこの世の経験を変えるために、君は阿弥陀仏の智慧を訪ねることができます。親鸞聖人の残して下さった書き物は、存在の本性を経験するその人自身の旅路において、物質世界と我への執着から生ずる迷いに出会うであろうことを思い出させてくれます。そういう迷いに気付いてお念佛で追い散らすことが出来るというのは、何という自由の実感でしょう。それが起こるとき私は、親鸞聖人が阿弥陀の光によって私のためにして下さったすべてに限りない感謝を覚えます。

              ご院家さま、坊守さま、そして正行寺のすべてのお同行に対して、信心の白道を行く私たちの旅をお支え頂いていますことを深く感謝し、合掌御礼申し上げます。

              アンディ・バリット

二〇二〇年十月十九日