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空と感恩  第141回ロンドン会座記録

第22回疏開リトリート閉会に引き続き、リトリート参加者はその日の参詣者十人ほどと共に、報恩講御取越に参詣して、親鸞聖人のご恩徳を讃仰させて頂きました。この会合は、ロンドン会座としては比較的少人数でしたが、雰囲気は明るく温かく、勤行はティーンエイジャーや小さな子供たちの声に支えられて、力強くしなやかに響き渡りました。

お取越勤行の後、顕明師は「空と感恩」という講題のお話をされました。編集の仕事のためにこの話を書く時間は二日しかなかったのですが、内容は五十年以上も考えてきたことですと前置きされ、そういう意味では、この日の法話は氷山の一角にすぎませんとおっしゃいました。

この法話において顕明師はまず、原始仏教の「十二縁起」の教義と大乗教の「空」の哲学との関係を説明されました。十二縁起に関して顕明師は、重要なのは識(主体)と名色(客体)の関係であり、両者の関係はまったく相互依存的にできており、原始経典の『蘆束経』に説かれているように、一方が倒れれば他方も倒れるという関係です。それ故に、識と名色の関係は空観の要石のような役割をしており、十二縁起全体の明白な妄想的現実を造り出す要となっているのです。そしてその後大乗教は、この相依相待的縁起の自覚を、宇宙の各構成部分の「融通無碍」な相互関係を説明するために適用したと、華厳哲学に言及しながら具体的に説明されました。

顕明師は、個人として自分自身が「空」の真実を、すなわち現実の相依相対性を、体得するということには、自分の存在を支えている全体に気付くと言うこと、つまり自分のためになされたすべて(御恩)に気付くと言うことが含まれていますといわれました。このことに気付かせて頂けば、私たちは広大な身にあまるご恩に満たされていることを感得せざるを得ません。佛菩薩や人びとに布施をしたいと思うのは、この溢れるような感恩の思いからですと話されました。

これを念頭において、顕明師は、竹原智明師の要請でジョン・ホワイト先生が名付けられた私たちのお寺の名前、Three Wheels(三輪精舎)は、『大乗本生心地観経』というある空観系の経典の一節から来ており、空と感恩と布施に言及するものであると仰いました。三輪精舎の壁に額装されて懸かっているジョン・ホワイトの詩にあるように、

 

もし贈り物そのものが清浄であり

与える人に

報酬や返礼の思いなく

受け取る人にも

負債や責務の思いなく

ただ与えるためにのみ

与えられるならば

 

その時

今度は

受け取る人が

そのまま与える人に

与える人が

受け取る人に成れる

 

そうなれば

相違から

統一と調和が

生まれる

ことになります。後ほどダンカン・ケネディ氏は、顕明師の法話のこの部分は、今回の疏開リトリート中の彼の経験を「直接的に指し示す」ものであったと言われました。その彼の経験というのは、彼が提出したある問に佐藤博子さんが直ちに別な問を投げ返して、それはまるで「落雷」のごとく彼の心を打って、更に深く心を内に向けさせて頂いたという体験でした。

顕明師の法話を聞いて、建心師は昔ある若い学生と交換日記をしていたころの自分自身の経験を話されました。ある日建心師は、その学生が日記に書いている精神的な喜びと、周りのお同行から聞こえてきた彼の自己中心的記な行動にギャップがあることを知って悩んだそうです。途方にくれた建心師は、ご院家さまの助言を請いに参りました。ご院家さまは「建心さん、あなたが布施をするとき、あなたは何も見返りを求めてはなりません。相手に見返りをもとめた瞬間、あなたの行為は純粋な布施ではなくなりますよ。佛法は、ギヴ・アンド・テイクの世界ではありません。ただ、くり返しくり返し、ギヴ・アンド・ギヴです」と仰ったそうです。このお話は私に、以前の疏開リトリート中にあるお同行がその方の奥様について「彼女は自分を無にして私たちを助けてくれます。それはまるで阿弥陀仏の本願のはたらきです」と言われたのを思い出させてくれました。

顕明師の法話は非常に深遠で、とても十分に理解することはできませんでしたが、私たちの多くは、竹原智明師によって表現され、戸田健二氏、ジョン・ホワイト教授、佐藤顕明師など、国籍も背景もの異なる、多くの人びとの出会いによって顕現した、三輪精舎建立の根本にある清浄な願心を振り返り示して頂いたのだと思いました。第141回ロンドン会座は、実際のところ、英国における正行寺法動の徹底的な更新を示すものだったいえるしょう。

今日のご法話の講題に関して、記録者のアンディ・バリットは、三輪精舎の新しいお同行は普通、月曜日のメディテーション・クラスか、日曜日の晨朝勤行参加を通して、僧伽の実践に参加するようになるということを指摘させて頂きました。もしその人たちの信仰と実践が発展すれば、通常その人たちは遂には年二回の疏開リトリートで一つの流れに合流します。僧伽へのこの二つの門は、メディテーション(禅宗)と浄土(念仏宗)、言い換えるならば、「空」と「感恩」に対応しているといえると申しました。第一祖ナーガルジュナ(龍樹)における相互依存的縁起関係の強調、そして親鸞聖人によってさらに明らかにされた「空」と「感恩」の一如性の強調は、それ故、私たちのこの小さな国で生きた現実になっていると見ることが出来るのです。

結論として、第141回ロンドン会座と第22回疏開リトリートは、私たちの目から塵を取り除いて阿弥陀佛国を素早く見せてくれる、一種の静寂な雷鳴であったといっても、誇張ではなさそうです。これは、佐藤博子さんが「すべてが始めてのように非常に新鮮でした。あなた方に加わらせて頂いて、有難うございました。私は大きな気付きもなく私自身の世界に当たり前のように生きており、予測しないことが起こったときだけ気付くようなありさまです。非常に不安定な世界に生きるよりほかに選択肢はないのですが、僧伽のなかにあることによって、一人ひとりがそれぞれの色に輝き、私のために来て下さっているのを見ることができます」といわれたそのお言葉に鮮やかに反映されています。

「一人ひとりがそれぞれの色に輝き、私のために来て下さっている」というのは、まことに菩薩の還相、諸佛称名のすがたに相違ありません。この輝かしい現実に遭遇して、もうひとりの参加者は、「本当に不思議だ。不可思議な人びとだ」と言われました。顕明師は、この素晴らしい不可思議な現実をご法話の結論の部分で次のように描写されました。

「すべての衆生を差別なく救うと誓われた阿弥陀仏の大悲に目覚めれば、私たちはただ心から懺悔して阿弥陀仏の招喚、無縁の大悲の勅命に従わせて頂くほかにありません。そうなれば、その阿弥陀仏へ帰命するその瞬間に、私たちは自分自身が、円融無碍に生起する縁起の法界において、よき友に、諸佛、諸菩薩に、囲まれ守って頂いているのを発見させて頂きます。」

南无阿弥陀仏

アンディ・バリット